■本名、アントニ・ガウディ・イ・コルネット。通称、アントニオ・ガウディ。アントニオはエスパーニャ系スペイン語読み。ガウディが愛したカタルーニャ地方にはカタラン語という独自の言語があり、カタルーニャ人であることをより所にしたガウディは、「アントニ」と呼ばれてしかるべきだろう。
■1852年6月、スペインのカタルーニャ地方に産まれ、1926年6月、74歳の誕生日を直前に事故死す。
■バルセロナ近郊にある田舎町で育ち、裕福ではなかったガウディ。学費も生活費もままならなかったバルセロナでの建築学校時代、ガウディはアルバイトに精を出すのだった。
■17歳で予科に入学し、1878年に建築家の資格を取得したとき、彼はすでに25歳になっていた。遅咲きである。大きな仕事ができないまま、ガウディは20代を終える。
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ガウディのデスマスク
ガウディ博物館、所蔵品
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■とはいえ、ガウディの才能は学生時代から一部の教授たちからは高い評価を受けていた。建築家の資格を得ても、助手として働いたり、ショーケースなどの小さな制作物を設計するに留まったが、その才能の輝きに注目する人たちもいた。
■チャンスは31歳にしてめぐってきた。実績がとぼしかったにも関わらず、ガウディを高く評価していた師匠たちが「サグラダ・ファミリア大聖堂」の主任建築家に彼を抜擢したのだ。
■建築家は経済的な安定を保障されるだけでなく、社会的にも認められる存在であり、社交界にも顔を出すようになっていた。しかし、ガウディには肌が合わず次第に社交界からは離れていく。
■40歳代の苦悩をへて新境地に入いると、60歳直前の大病を境に大聖堂の建設に専念したのだった。
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